日本ではじめてポンプ車を備えた救急隊
横浜では、開港と同時に8 消防組の民間消防隊が設置、1864 年には居留地消防隊が組織された。ポンプ車を備えた消防隊は日本で初めてと言われている。その後、1914 年に日本初の消防車、1933 年には日本初の救急車が配置されるなど、近代消防発祥ゆかりの地と言える。現在山下消防出張所のシャッターが下りている時に、当時の貴重な写真を見ることができる。
江戸末期、関内地区を襲った「豚屋火事」
豚屋火事による影響は関内一帯に甚大な被害を与えた。火の勢いは凄まじく、午前8時ごろに出火したし、南風にあおられ現在の横浜公園(横浜スタジアムを含めた周辺公園)にあった遊郭を焼き尽くし、その後外国人居留地まで延焼し、ようやく鎮火したのは夜の10時だったという。
日本ではじめての近代的な道路
防火対策としてイギリス人のR.H ブラントンが外国人居留地と日本人居留地の境界を作り、道幅を広くとるなど近代的な道路を造り上げた。その境界線が現在の日本大通りである。日本大通りを挟み、山下公園側が外国人居留地、関内駅側が日本人居留地となっていた。
防水貯水槽を今でも見ることができる
1994 年まで日本発の消防署、中消防署日本大通り消防出張所が建っていたが、老朽化にともない新築移転。現在は貯水池跡が残されており、その歴史を伺い知ることができる。この貯水槽は湧き水で満たされており、平時は冷蔵庫の代わりとしても用いられていたそうだ。
江戸の終わり、日米和親条約の都市計画の一部として横浜の沼地を埋立、全盛期で遊郭18 件、他に局見世44 軒、案内茶屋27 軒など外国人向けも含めた遊郭街「港崎(みよざき)遊郭」ができた。その中でも一際存在感を放っていたのが「岩亀楼」(がんきろう)で、昼間は一般庶民から見物料をとり閲覧させていた程の豪華さを誇った。沼地だった場所を埋め立て、四方を堀でめぐらし出入り口は橋一つという構造だったため、豚屋火事では多くの人が逃げ遅れ、400 人以上の遊女が亡くなったとされている。焼き尽くされた遊郭跡地はその後、避難所も兼ねた横浜公園に生まれ変わった。