日本初の近代的な大通りは、いかにして生まれたか
江戸末期、1866年に起きた横浜の大火、通称「豚屋事件」の炎は瞬く間に関内一帯に広がり、外国人居留地と日本人街の大半が焼失した。この事件をきっかけに、外国人たちは自分たちが住む居留地を災害から守るために、早急に近代的な道路の整備や、防火対策、近代消防の設置などを求めた。
明治3年、ブラントンの設計により工事が進められ、中央車道60フィート、歩道及び植樹地帯を左右各30フィートという道幅を広くとった近代的な道路を造り上げた。それが「日本大通り」である。この道路は広い道幅により、建造物の密集を避けられるため、火事の延焼を防ぐことができるという防火対策としての側面ももちろんあるが、外国人居留地と日本人居留地の境界線でもあった。日本大通りを挟み、山下公園側が外国人居留地、関内駅側が日本人居留地となっていた。この近代的な道路のおかげで木造の平屋ばかりである日本人居留地からたとえ火が出ても、外国人居留地まで火災の被害を受けなくて済むような設計となっているわけだ。
通りの名前が街の名前に
明治12年に、日本大通りは町名に採用された。2004年に開通した、みなとみらい線日本大通り駅の出口から日本大通りは直結しており、通りには歴史的な建造物が立ち並ぶ。中華街、大さん橋、象の鼻パークなどへのアクセスが便利な駅としてたくさんの人々に利用されている。道にはタイルが埋め込まれていて、よく見るとひとつひとつが横浜の開港の歴史や場所に関連した絵となっていてたのしい。
美しいイチョウ並木
神奈川県庁や横浜開港資料館、横浜郵便局、横浜地方・簡易裁判所、など重要な施設の立ち並ぶこの街路は、長い間人力車や車が行き交う横浜のメインストリートとしての役割を果たしていた。経年による整備を重ねられたが、道幅の広さはそのまま、まさに「大通り」と呼ぶに相応しい。秋にはイチョウの紅葉、冬にはイルミネーションが美しく、スケッチをする人やカメラを片手に訪れる人、またファッション誌やテレビCMのロケ地としても頻繁に利用される美しい場所だ。
横浜の街づくりの父・ブラントン
横浜しいては日本への素晴らしい貢献と輝かしい業績の一方で、ブラントンの名前はあまり知られていない。開国した日本は、諸外国とも矢継ぎ早に条約を結び国交を開いたが、日本の近代化とともに新技術導入を画策した幕府は多くのお雇い外国人を招いた。その第一号がイギリスからやってきたR.Hブラントンだ。
灯台の近代化を条約で義務付けられた幕府は、イギリスに技術者の派遣を要請。ブラントンは当初は灯台のスペシャリストとして来日した。横浜だけでなく、北海道や三重県、鹿児島県などの港で、日本の風土にあった数々の灯台を設計。また、その一方で、灯台技術者を育成するための「修技校」を設け、後継教育にも心血を注いだ。灯台のほかにも、各地で上下水道、電信、電話に関する近代土木技術を伝えて教育することもしていたそうだ。ブラントンの日本への貢献は計り知れない。
イギリスから妻と助手2人を連れてはるばる来日したブラントン。横浜公園の日本大通り側の出口にあるブラントンの胸像に、気を止める人はほとんどいないだろう。しかし、横浜開港の歴史に面白さを感じたなら、ぜひブラントンの業績を噛み締めて、日本大通りを歩いてみるのもまたいいかもしれない。